SEIJI FUJIWARAのブログ

30代、貿易課で働く双子の父です。

書くということ。

最近、言葉を「書いている」というより「たたいている」という感覚が強い。
理由は当たり前で、言葉を文字に置き換える時に使うほとんどがパソコンだからだ。
キーボードをたたけば文字が打ちだされる。
とんでもなくペンや鉛筆で書くよりも楽だけどその分「書いている」という感覚が自分から自然と消えている。

最近、キーボードをたたく力が弱くなった。
パソコンが苦手だった僕は、下手な人特有の無駄だと思えるくらい強くキーボードをたたいていた。
エンターキーが壊れてしまうのではないかとおもうくらいに。
パソコンの操作にはまだ不慣れなことが多いが、キーをたたく、いやキーを「押す」力は以前より弱くなった。無駄に力強くエンターキーをたたくことも少なくなった。パソコンの耐久年数を延ばすには好都合だ。

子どものころ、僕はとても筆圧の濃い字を書く子だった。
HB鉛筆でも、2Bくらいの濃さで文字を書いていた。
勉強のできる子に多いが、HBでもさらさらと僕のHBより格段にも薄く、しかも美しく文字を書いている子がうらやましかった。しかも僕のほうが字も下手だった。
でも、あの頃は鉛筆を使い、文字を確実に書いていた。自分らしく、力強く。

大学に入ってから留学する前までの3年間を思い出すと、僕はキーボードを強くたたいていた。その日出会った人との会話、初めて知った社会問題、何かを作り出す過程に関わりながら、その時感じた感情をとにかく忘れまいと、ミクシー(Mixi)に駄文を書いていた。文章校正などあったものでもなく、誤字脱字も多かったけど口から洩れてしまう何かを早く吐き出して文字に起こさないと、次に進めない感覚あった。

書くという作業が大好きだった。
あの頃はキーボードであっても力強く文字を書いていた。
「打ちつける」というか「刻む」という感覚さえあった。
自分の中のとにかく腑に落ちないこと、とにかく消化するために。
最近の僕は文字だけどボタンを使って「押している」。

あの頃は失敗が多かった。
毎日何かを失敗していた。
失敗をきちんと消化しようとしていたなんて優等生なことはいえないけど、とにかく忘れやすい性格とわかっていたから、文字を書くことで自分を落ち着かせていた。
 寝る前にとにかく書いて、次の日に誰かからの返信を心の中で待ちわびながらパソコンを開いていた。あの人からメッセージがあれば良いなと思って書いた文章に、次の日とその人からの何かしらのコメントがあったときは、うれしかった。自分に言葉が確実に誰かに伝わっているという感覚が、気分を良くしたし、その時にしていることの意味付けにもなっていた。

 腹の底に引っかかった問題を結論がでなくても、その時点でとにかく答えを探しだしたかった。今よりも時間もかかっていたけど、その瞬間に書いている一文と、その前の行に書いた一文が自分の言葉としてつながっているということに自信があった。最近はそうでないことが多い。

なぜだろうか。
なぜだろうかの答えを今、書きながら考えている。
今のところわからない。
いつもよりはキーボードを強くたたいていることがせめてもの救いだ。
なんだか、今日はそれがわかりそうな気がする。
もう少し書き続けよう。

そういえば、話し言葉を整理するために書き言葉で文章を書いていることが多かった。頭の中で何かしらぐるぐる考えたり、仲間と話し込んだり、自分なりにその時に本気で相手に話した言葉を、整理するために書き言葉に置き換えていた。


どうすれば自分の納得できるものが書けるかが再度確認することができた。
書くことはその日、その日の確認作業。
でもただ確認するだけだとさみしい。
もう少し欲がある。
自分というフィルターを通したモノの見方が、他の人にどれだけ通用するだろうか。
その日、考えたこと。自分以外の仲間が考えていること。世の中で騒がれていること。
僕にしか書けない断面図があるのだろうか。
自分自身物の考え方の過程は、通用するだろうか。
読み手を得た書き手は、書くことによって自分が問われる。

責任を感じる。1行1行を考える。
そんな感覚を取り戻せるか。
文章を書くということ、残すということは最終的にはそのことに責任をどれだけ感じることができるか、自分のこととして思えるか、そして書き続けられるか。

そういう文章を書きたい。