SEIJI FUJIWARAのブログ

30代、貿易課で働く双子の父です。

わからないのには理由がある。

わからないのには理由がある。
わからない理由がわかられば、もうわかったようなもので次に進める。


人がわかっていて自分だけわからないときは、悔しい。つらい。
特に勉強よりも、文化とか芸術とか音楽とか食べ物などがいらいらする。


有名人だから、この絵は1億円の価値があるから、ノーベル文学賞候補だけらとか、社会がどんどん自分に向かって「君もわかるよね。当然だよね」と突っかかってくる。


わからないときは沈黙するか「ぜんぜん理解できてません」オーラを察知されないように、取り繕う。その時間は耐え難い。


どんなにいいものでもわからない、理解できない、共感できないことはある。
社会は、「お前の知的レベルがそれを理解できる域に達していないんだよ」とささやく。
そうですね。ごめんなさい。もう二度とそちらの暖簾はくぐりません。
と逃げてします傾向が僕にはある。


特に大半の人が、なんとなく理解していて満場一致で「すばらしい」と認めているものに。
その中に入ってしまうと、自分が無くなりそうになる。


学問に関しては、好き嫌いは許されないと感じていろいろ手を出すようになったけど、まだ世の中の知的領域の8割以上は僕にとって、若干怖い。



なんでこんなことを書くかというと、昨日プチオーケストラ演奏会に行ったからだ。
知り合いのカフェのママさんに教えてもらい、少しでも音楽への壁が壊れるかなと期待しながら参加してみた。ママさんのことは人間的にもかなり信頼していて、「この人が言うんだから悪いものじゃないだろう」とはわかっていた。


会場参加者の9割は女性で、気品が漂う。
たぶん参加者の平均所得1000万円は越えていただろう。
演奏中も、観賞している人の様子が気になってしかたがない。
演奏自体もすごいとも感じなかったし、言葉にならない迫ってくるものもなかった。


でも参加者はみんな小さな会場で身近に有名な演者がそこにいることに満足しているようだった。参加者が聴き入る雰囲気に、僕は完全にやられていた。「お前のくるところではないんだ」と言われているようだった。


ビデオカメラに演奏を納めようとするおじさんの動きで、前をみても「文化鑑賞における日本人の未熟なマナー」とかを勝手に考えてしまう。ああ、だめだ。そう思い、目を瞑る。
目を閉じて演奏の繊細な音色に聴き入っている人も多い。もしかしたら僕も、何か感じれるかもしれない。


目を閉じると確かに、バイオリン、チェロ、ビオラなどの音がそれぞれ分解して聞こえる。バイオリンに集中すると、バイオリンの軸で聴こえる。チェロを軸にするとさっきまで軸だったバイオリンがなんだから遠いところで奏でているように聴き取れる。

だから、なんだ。
演奏を楽しむ裏技でもなんでもない。
少し演奏に対する集中力が増しただけだ。
好きで好きでたまらない、という感覚からあまりにも遠い。
そして、何かを突きつけられたかのようですごく疲れた。


わからないのには理由があるはずだ。
でも、それがどうしてもわからない時、人はすっごい分厚い壁を作る。