SEIJI FUJIWARAのブログ

30代、貿易課で働く双子の父です。

文章は読んでもらわないと話にならない。

ある人は云う。
「人の死とは、誰かに知られて初めて死ぬ。誰にも気づかれずに死ぬのはまだ死ではありません」と。


人の生死観に対する、他者との関係性を重要視する考えだ。
誰かにとって悲しい、嬉しい、悔しいなど、感情のやり取りがなく生きる人間は、現実世界で生きていても、それが本当の意味で生きているかはわからない。
だから人は、誰かとつながり自分の重要だと思う考えや価値を他者に発信する。


文章も全く同じ。
人に読んでもらいたいと思うからこそ書く。
でも、人に見られたくない日記を書いている人もたくさんいる。
その人たちが、心のうちの大切な想いを吐き出すのは将来の自分に何かの変化を求めているからだと思う。今の自分より、少し年齢を重ねた自分が何を考えているか、どんな物の見方をするか、。自分の中の他者。全く成長や変化を予期しない自分に日記を書くことは僕にはあまり理解しづらい。


僕は上の生死観を御ひいきにしているから、他者との関係に意味を持ちたいと思う。
文章を書いて、一般に発表するときは読む人をどうしても意識する。
読んでいる人の集合体である特定の分野や社会において、理解されたい、わかってもらいたい。


何かを研究するにしても、それがどんな意味を持つのか、何のために重要なのかを考える。
世の中にそれが、どんな価値があるのか、誰がそれを読んで勇気づけられたり、利用してくれるのかが大きなウエイトを握っている。


研究者の中には、「それはどんな意味があるんですか」といいたくなるテーマがある。
もし答えが「いや〜自分のためにだけなんで。読んでもらう人はあんまり関係ないです」という答えだったらとても残念だ。調べ学習だ。もちろん、今は世間が評価しなくても「いつか必ず日の目を見るはずだ!!」という想いや感情が外に向いているなら、大いに結構だと思うし尊敬する。


だから論文は書くときには、この人には読んでもらいたいと頭の中で考える。
だから文章は読んでもらわないと話にならない。
ちょうど今、研究計画書を書いている。
書いているときに、入試に関係する人の顔色を伺った文章になりそうな瞬間がある。
これは就職活動のときの自己PRでもよくあることだ。
そんな時は、定期的にいろんな人に読んでもらわないといけない。
僕自身をよく知る誰かに、なんでこの研究をしたいのかを伝えないと。


文章は読んでもらって初めて可能性が生み出される。
自分ではない他者と、自分とのやり取りにおいて。
相手がいる。好き放題は書けない。
人の顔色を伺っているのでなく、書いても理解されないだろうから。
相手にどうやって、自分の本意を伝えて読んでもらうか。
この緊張関係が文章を上達させる。