SEIJI FUJIWARAのブログ

30代、貿易課で働く双子の父です。

『kotoba 42 司馬遼太郎 解体新書』。子どもたちに司馬正太郎どう説明しようか本気で考えたりする。

 『kotoba 42 司馬遼太郎 解体新書』(集英社クオータリー)を読む。小説家、映画監督、地理学者、歴史学者、翻訳者、漫画家たちが専門分野を切り口に司馬遼太郎を「腑分け」するという特集。

 

 司馬遼太郎は今から25年ほど前に亡くなった、主に戦国から明治末期までを日本を描いた歴史小説家。

 僕自身、高校時代に司馬作品をずっと読んでいた。彼の小説は長編が多く、『竜馬がゆく』(文春文庫)だと400頁近い文庫本全8冊に及ぶ。読みだすと止まらず、一睡もせず1冊読み切った記憶がある。小説でありながらも、「教科書が教えない歴史」を吸収した感覚に陥り、彼が描く「大局(ビック・ピクチャー)観」に吸い込まれていく。読後には、今の日本人が持ちえない「一個の男子の典型」を見せつけられ、なんとも清々しい気持ちになる。「こんな歴史人物がいたのか」「なんだ、日本もすてたもんじゃないか」と。死後、彼は昭和の「国民作家」と言われたりもする。

 高度経済成長期を支えた政治家や経済人の主に男性にファンが多く、小説でありながら膨大な参考資料を基に構成され、物語というかそれ自体が歴史そのものの「真実」であるかのうように錯覚する。今の私たちがイメージする坂本龍馬像は司馬によって作り上げられた部分が大きい。

kotoba2021年冬号

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  • 発売日: 2020/12/04
  • メディア: 雑誌
 

 

 彼の死後、「司馬史観」に影響を受けたグループ。一部保守派の思想的根拠として流用された。有名なのは「新しい歴史教科書を作る会」。特に、『坂の上の雲』(文春文庫)は明治の困難な時代に当時の列強・ロシア帝国に勝った経緯が深く描かれており、格好の材料となった。西欧諸国の文化を吸収し近代化と富国強兵を推し進め、当時の列強・ロシアに薄氷の末であったが勝ったこと、アジアで数少ない独立を守った国であること。彼らからすると「明るい日本」を取り戻す材料が司遼太郎が描いた人物や構成にぴったりだった。

そしてその先には「アジア諸国の開放のために樹立した大東亜共栄圏は正しかった」「大東亜戦争(彼らは用いないが太平洋戦争のこと)は正しかった。これは侵略戦争ではない」等。

 

 後年、作る会のグループからも司馬は批判される。彼は右派にも左派にも捨てられたようだった。作る会が司馬の戦争体験に基づく日露戦争から太平洋戦争に至る40年間への痛烈な批判についてメンバーから異論がでてきたからだ。彼が晩年書いた随筆やエッセイを読めば、自身の戦争体験に基づく太平洋戦争までのこの国に対する厳しい評価が分かる。

 特に、彼の晩年の作品『この国のかたち』(文春文庫)で痛烈に書かれている。『坂の上の雲』をこれから読もうと考えている方は是非合わせて読んでもらえたらと思う。

 

この国のかたち 全6巻 完結セット (文春文庫)

この国のかたち 全6巻 完結セット (文春文庫)

 

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 僕は司馬本を読んで日本史の面白さを知った。歴史には良質の物語が必要だと思う。そうでなければ、歴史なんて用語の暗記にしか過ぎない。現在の歴史教科書を読んで面白いと思うことは難しい。時代劇、大河ドラマ、歴史漫画、そして歴史小説などの物語を読むことで面白さに出会える。小説はフィクションだし、作者の引用する文献が間違っていたということもある。

 

 この10年近く司馬本をあまり読まなくなった。彼の小説の明るさに面白みを感じる反面、司馬本人が描くことができなかった日露戦争から太平洋戦争の40年(ノモンハン事件など)を思うと彼の限界が痛々しくもあった。「なぜノモンハン事件を描かなかったのか」という憤りさえあった。

 

 でも、自分の子どもに歴史の面白さを伝えたいと考えたとき、司馬遼太郎を無視することはできない。「彼が書けなかった時代」やその背景も含め、僕なりに話せるようにしたい。

 

 最後に本書の寄稿者の一人である佐藤優が司馬作品を読む意義について書いている。

 

冷静な視点

 1980年代以降、価値相対主義の時代に入ると、「何が正しく、何が正しくないか」ということを問いかけるのはよくないと言われるようになりました。「絶対に正しい事柄など存在しない」ので、自己の思想や価値観を押し付けてはならないという考え方です。

 ところが、今度はその隙間を突くように「稚拙で乱暴な歴史物語」が、社会の中に侵入してくるようになりました。歴史修正主義と呼ばれる人たちが、「これが真実の日本史だ」と言わんばかりに、自分たちに都合のいい歴史観を流布していったわけです。

 多くの人が、そうした間違った歴史物語を読んでしまうと、それが「正しい歴史」だと信じられてしまいます。戦前、そうした都合のいい物語を信じたばかりに、我々は相当な間違いを犯しました。だから司馬作品を通じて、若い世代の人たちにかつての歴史を代理体験してもらうというのも一つの方法です。

『この国のかたち』(文集文庫)という作品が示すように、司馬は日本を「わが国」とは言わず「この国」と捉えていました。「わが」とは所有概念を表すものですから、司馬には「日本を自分の国だと捉えるネイションの概念」が希薄だったのでしょう。こうした客観的で冷静な視点は、司馬作品全体に通じています。

 司馬作品は、保守派の歴史観にもリベラル派の歴史観にも組み込まれるほど、右にも左にも収まりきらない魅力を備えています。幅広い解釈が可能な司馬作品を読めば、一人ひとりの「国家」や「戦争」を捉えるスキルも向上していくはずです。

 参照元:『kotoba 42 司馬遼太郎 解体新書』P99